平和の象徴

鳩は不憫だ。いつも驚かされるか驚かれてばかりだ。

平和の象徴と呼ばれているにも関わらず街では汚いものとされ、ただ生きているだけなのに人間をビビらせてるように扱われたり、人間からビビらされたり。孤独な生き物だなと常々思う。聖書によると平和の象徴というのも洪水落ち着いたで〜と伝えただけであいつ自身は何もしていない。なのにシンボルとされてしまった。業だ。

 目の前にも今サンバの鳩がいる。図書館の近くの公園のベンチに座って本読んでいる人間が僕だ。サンバは踊れない。広くて治安の良い公園だが、観光客含め不特定多数の人が往来する場所なだけ鳩的にはあってちょっかいをかけられやすい環境でもある。都市部が窮屈に感じるのは鳥も同じらしい。子供が通ればバグった距離感で近づいてこられ「いや、ちょ、なんすか」と言いながら鳩たちは逃げることを余儀なくされる。これはもはやテロだ。まあ子供がやるなら可愛いものだが、大の大人が鳩を驚かせているのを見ると恥ずかしいと感じる。全然大じゃないなと思う。小の大人。これはおしっこしてる人か。いやそれを言うなら小の小の大人か。

 他の動物に対しては冷静なようで、散歩している犬同士が吠え合う様子を鳩たちは冷ややかな目線で見つめていた。食物連鎖で言えば鳩が負けるが、内面的には鳩の方がしっかりしていることが多い気がする。少なくとも知らない鳩を見つけた時に彼らはぽっぽぽっぽしない。大の大人の鳩は立派なものだ。これは鳥人か。

 しばらくすると鳩が一匹足元にやってきた。本を読みながらちらちら目線を送り愛でていたところ、視界に何かがフレームインしてきた。ここは中東ではないのにまさかと不安を抱き、恐る恐るアングルを音の方向に向けると、ポテチのカケラのようだった。そして男性が1人でポテチの袋を持っている。どうやらこいつが餌付けしようとしたらしい。しかも知らないメーカーの。知らないメーカーのポテチなんか食うなよ。一番問題なのは下手すぎて鳩と全然違う方向にポテチが飛んできてしまい、人間である僕が餌付けされているようになってしまったことだ。視界に入っているので気付いてはいる、だが顔を上げるわけにはいかない。なんも気にしてない方がスマートだからだ。向こうもそうだろう。当たってはいないが、取りにくるにはポテチが僕に近すぎる。そして謝るのもおかしい。ただぼんやりとしてる茶色い塊をつまみに本を読むことを余儀なくされてしまった。さらに困ったことに、男性は隣のベンチで改めて餌付けを始めた。こうなると僕がこの人からの餌を食べない生意気なやつに見えてくる。感じる冷ややかな視線と嘲笑。誰からはも近寄られず、哀れな恥ずかしい存在として扱われていることが分かった。近くにいた鳩も、吠える犬とはまた別の冷たさでこちらを見つめていた。

 ここに来た時から体勢は変わっていないのに、もう30分前と世界は違う。あの餌付け野郎のせいで。もうこの世界で元通りに生きていくことはできないんだ。あの餌付け野郎のせいで。僕は気付かれないようにそーっと男性に近づき、バサっと勢いよく翼を広げた。男性は一目散に逃げていった。悪い行いをするからこんなことになるんだ、ざまあないぜ。ベンチの下に残ったカケラを貪り食べ、日が暮れる前に巣へ帰ることにした。誰もこちらを見てはいなかった。

 

 この様子を見ていた神は怒り、人間の愚かさに怒りを覚え、地球全土を巻き込むほどの大洪水を引き起こした。鳩は、平和の象徴ではなく争いを生んだ諸悪の根源と見做され世界から消されてしまったという。

sonouchi

 1ヶ月以上借りっばだった本を返しに図書館に行きました。何事もなかったかのように再貸し出ししてきました。お絵描きを上手になりたいと思ってイラストの書き方の本を借りてちょこちょこ遊んでます。面白みのない下手っぴでいるぐらいなら簡単にちょっと描ける上手っぴになりたいなと思ったので。シマウマを上手に描けるようになりました🦓

 

図書館帰りに商店街ですれ違った若い女性が「うわーもう日曜日だよ、サザエさん始まったら憂鬱なっちゃう」って言っててインターネットみたいな事言ってんなーと思いました。全然そんな事ないと思います。今はテニスしてる人を眺めながら河川敷でサンマルクチョコクロを食べてます。元気よくこぼれていきます。いい事ですねー。そういえばサンマルクのレジに「全国パン共通券」を利用する為のQRがあったんですが、「全国パン共通券」の響きの間抜けさにニヤニヤしてお会計時恥ずかしかったです。マスク外す弊害はニヤニヤがバレる事。他人のはニヤニヤは何で笑ってんのかなーと考える楽しみがあるので見たいけど。

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 ここ数ヶ月は仕事でド疲れ魔王となっており、ろくに映画やラジオを摂取することもできずまばらなエンタメライフでした。家に帰っても何も考えずyoutube流しながら携帯でツイッターウイイレばかり。現代人ごっこが過ぎました。BSで再放送してるあまちゃんだけは見続けています。ただでさえバカおもしろ脚本ではありますが、自分とほぼ同じ方言なので正確に聞き取れてニュアンスもよく分かる事がハマれてる要因かもしれません。

 あーあとはおさるのジョージもハマってます。ちゃんと見た事なかったのでおバカなジョージによるドタバタ系作品かと思ってましたが全然違いますね。課題に対してよく考えて知恵を出して行動する賢いジョージを黄おじをはじめとした周囲の人々、動物が優しく見守っていくめちゃ最高生活知育ドキュメンタリーアニメでした。イラストのタッチが可愛くて犬とかアヒルとか動物達が特にキュートなんだよな。そんな折、PARCOに行くとおさるのジョージポップアップストアがやっているではありませんか。「えぇ、僕の為に!?うれしぃ…」と、ナゲット15ピースをマクドで提示された大鶴肥満くらい喜んでしまいました。スタッフさんに聞いたらマジで僕ほ為で草でした。てことで今スマホケースにはジョージのワッペンステッカーがいます。黄色い服を意識的に着用していこうかな。

 

 今晩は鶏肉と絹さやを酢でジュワーっとさせたやつと大根の味噌汁と半額だったポテサラを食べる予定です。性懲りも無くまた2週間空けてしまった大河ドラマも見ます。ダウの単独は今週中に見ます。今日借りてきた多和田葉子のエッセイと建築家ブルーノタウトの本はそのうち読みます。そのうちはそのうちです。そのうちといえばそのうち転職しようと思ってましたが今度こそガチモードです。上司にも言ったのでもう引き返せません。そのうちって未確定なものとして使いますが、今もいつかのそのうちです。このブログも期間空いてるからそのうち書こう〜としてたし。図書館の本もそのうち返そう〜と思ってたし。カイヤと川崎麻世もそのうち離婚すると思います。あれ?結局もうしたんだっけ?

 

引き続きそのうちフラグの回収作業に努めます。

そろそろサザエさんが始まりますね。僕は楽しみです。

偽のギンビス

 で、こうしてたまにブログを書いてはみるものの、文章がうまいとは思っていない。思いついてしまった表現をどうしても言いたがるから、読み返してみると構成が下手くそだったり不要な小ネタが多かったりで読みづらいと感じる。調味料をかけすぎている。「ワードセンスあるねぇ」「言葉遊びが面白いねぇ」って褒められる事が多いのでそれはそれでもちろん嬉しいのだが、シンプルに文章が上手という土俵では戦えないんだよなと心の中でため息をつく。

 でも読書感想文も日記もめんどくさいと思ってたしなぁ。小学生の時読書感想文で松坂大輔の本を読んで書いたらクラスの代表に選ばれ、何かのコンクールに提出することになったのだが、いざ出すとなったら先生のゴリ添削により最初の僕の文章はもう匂いすらしなくなっていた。なんかそれがトラウマになってる節はあったかもしれない。ところで松坂がCMに出てて誰がマイナンバー作ろうと思うんだ。

あと高3の時、年次で発行される学校誌で結構な量文章を書かなければならなかったのだが、当時読んでいた星野源の書籍に影響を受けてエッセイみたいな書き方をしたらすごく生意気な内容になったことを覚えている。字数は大幅にオーバー、大きさも米粒サイズの字になっており、読む気にもならなかった。この影響か、一応それなりの役職であった訳だから卒業後も何かしらの機会で文章の依頼がきてもいいと思うのだが、まだ音沙汰なしだ。所詮誰かの真似事でしかない、真似っこ動物。ほら、こういうところだよだめなの。


 ブログも、Twitterも、詩も、短歌も、LINEも、手紙も、メモも、落書きも、意味なんてない。毎日やる気もない。読んだから、書いたから何だと思う。今この記事だって何にもならない。だから必要だ。

 言葉にできないことは形にする、形にできないことは言葉にする、言葉にも形にもできないことはそのまま大事にしておく。

 

 

散歩道にあるフリーな掲示板。こういうのだよこういうの。

 

 

 

異世界イヤホン

 ワイヤレスイヤホンを失くした。

それは一昨日の晩、ランニングを終えて家のベランダで涼んでいる時。状況としては僕はベランダに敷いている人工芝の上に座り、イヤホンをすぐ足元に置き、ペットボトルのスポドリをスツールの上に置いていた。いつも通りの配置。「今日は長く走れたぞ〜」と足を伸ばしたらスツールにの足にあたりバランスが崩れ、ペットボトルが落ちた。ペットボトルは半回転して真下にいるイヤホン(L)に直撃。ピタゴラスイッチ形式でイヤホンはの間をすり抜け裏庭へ落下した。砂利に着地する「コツッ」という音が響き渡る。あまりに一瞬の出来事で呆気に取られる。「うわー!やばい!!!」となる前に、イヤホンをベランダから落とすという状況が面白くて笑ってしまった。よく失くす物の定番だけどこんなパターンもあるのか。

 

片耳のイヤホン川に投げ入れて横揺れの水 逆立ちの蟹

 

以前つくった短歌のことを思い出す。でも今回は水辺じゃないから下にいるのは蟻か、何聞くかな。ゆら帝とか好きかな。

なんて考えている場合ではなく取りに行かなくてはいけない。でも裏庭部分は普段は入れないようになっているので早くても翌日になってから管理人に連絡するしかない。翌朝管理人にメッセージを送っておき、僕の仕事中に探してくれることになった。風も吹いてなかったし昨日の今日の昨日の昨日の明日の明日なんで見つかるだろうとたかを括っていた。が、昼過ぎごろ管理人から届いた連絡は「それらしきものは見つかりませんでした」。仕事が終わって家に帰るとアパートの入り口に「イヤホンを探しています」の貼り紙までされていた。いや恥ずかしい恥ずかしい、誰がベランダからイヤホン落とすんだよ。やめてよ。

で、昨日。休みだったので朝から管理人の元に殴り込み裏庭開放運動実施。戦場には多くの血が流れたがなんとか裏庭の入り口を開けてもらうことに成功。管理人と一緒に探し始める。イヤホンの色がベージュっぽいから砂利と同化するとはいえ、流石に見つかるだろうとたかくくりPart.2。30分以上かけて自分の部屋と同じラインをぐるぐる探したが見つからない。Bluetoothも繋がらない。音を出してみれば聞こえるかもしれないと思いApple Musicを開いてみた。こういう時に何流せばいいんだ。管理人に聴こえた場合に「あぁこういうの聴くんだ」って一瞬でも思われたくない。わからない、わからないが、歌詞があるとなんか嫌だなと思ったのでSAKEROCKの「マジックアワー」にした。地面とにらめっこする僕の後ろでハマケンや源さんが見守っている。マジックアワーの気の抜けた呑気な雰囲気のおかげでリラックスして探せた。もう見つからなくても別にいっかぁという気持ちにすらなってきた。午前中は諦め、一旦部屋に戻り昼ごはんのオムそばを食べる。もう一度ベランダを探したがあるはずもなく。仕切り直して午後1人で再チャレンジしたものの、やはりどこにも無い。こうなるとだ、ベランダから裏庭までの間にパラレルワールドへつながるゲートがありイヤホンはそこにたまたま入ってしまったということになる。どこかの世界線のアパートでSAKEROCKが流れていたのだ。もしそこが音楽がない世界だったら、僕のイヤホンを見つけた人あるいは何かが音楽を知らない者だったら、これはすごいことなんじゃないか。なんだかワクワクしてきた。元気にしてるか左イヤホン。お前は偉大なるイヤホンだ。そっちの世界に音楽という素晴らしいものを広めるんだ。ベース強めで楽しんでくれ。

そんなこんなで今月買ったばかりの自分史上最高額のイヤホンと前向きなお別れをした。

 

そういえばイヤホンはなかったけど、ピンクの折り鶴が落ちてた。

あなたはどの世界からきたの?

 

豆電球は触ると熱い

 23時発の夜行バスを取ったのが間違いだった。21時まで仕事した後、ダッシュで帰宅する羽目に。なんで21時まで仕事せないかんのだという気持ちとリュックの両脇を抑え、駅を駆け抜けた。家に着いた時点で出発まで約1時間。まだ何も準備していない。買ってきた麻婆茄子丼のお弁当を気合で丸呑みしつつ、かまじいの如く何本もの腕を駆使して荷づくりをする。モバイルバッテリーは入れたか?常備薬は足りているか?イライラして仕事中独り言が増えてきたことを反省しているか?火事場の馬鹿パワーで何とか準備を済ませ、家を出た。駅の近くまで来た段階でタクシーも検討したが、道でタクシーを呼び止めたことがないので緊張してしまい、左手を一瞬だけ挙げてすぐにポケットにしまった。「こいつタクシー止めようとしてんな」と通り過ぎる車達に思われることも嫌なのだ。思ってないだろうけどさ。そんな自意識を捨てられない自分への情けなさブーストで走力がアップし、なんとか出発ギリギリでバスに間に合った。疲れたからさっさと寝ようと目を閉じた瞬間、荷づくりしながら床にこぼした水をろくに拭きもせず家を出た事を思い出した。まぁいいや、四捨五入したら夢だから。

 そんなヘロヘロの状態で東京に行ったのはカネコアヤノの武道館公演があったから。去年の5月に見て以来2回目。その時以上に圧倒される凄いライブだった。音楽や言葉の力が強すぎる人には魔力を感じるのだけど、カネコアヤノもその1人。カネコアヤノという現象を見させられている感覚になる。繊細な言葉の数々に光が宿り、会場に解き放たれ、心臓のど真ん中に響く。他のアーティストのライブでは中々体験できない。武道館を包み込む大きな大きな声量は計り知れないパワーを持っていた。冗談じゃなく、この世界にカネコアヤノの音楽にあるなら大丈夫だと思えた。 あ「明け方」「セゾン」「エメラルド」「光の方へ」など、今日聴きたいなぁと思ってた曲がたくさん聴けた。鬱状態でろくに眠れない日々が続いていた頃、「明け方」にとても救われていた。上手に笑えるようになんてならなくていいんだよな。どうせいつか終わるから、その瞬間に悲しみ怒り喜ぶ。救いであり、ソウルだ。

 MC無しで何も語らず進んでいったけど、アンコール冒頭だけ少し話してくれた。歌ってる最中と反対に、力の抜けた口調で「ありがとうございま〜す」と繰り返し伝える彼女を愛さずにはいられない。「こないだまで鼻くそほじってたのに、なんだかおかしな事になっちゃったなと…生きててよかった〜」とも言っていて、その一言で今日来た甲斐があったなと思った。帰り道、神保町でもう寝てしまった本屋街を歩きながら一緒に見た人と感想を言い合った。「愛と意志が込められているからカネコアヤノが好きなんだよね」と解釈が一致した。好きなものが何かではなく、それがなぜ好きなのかが共通している事に安心を覚えた。

 あと会場の照明が素晴らしかった!小さな豆電球のようなちらちらした光、ろうそくのようなとろとろした光、月明かりのようなぼんやりした光。ライブの雰囲気を見事に創り上げていた。

 開演前、疲れ果てて座席でしばらく爆睡していた。まだ寝ぼけてる最中に公演がスタートしてしまったので四捨五入したらあのライブも夢だけど、現実でも夢でもどっちでもいいや。どうせ忘れない。

 

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f:id:HA_YO_NERO:20230119142924j:image早朝の大宮駅近くのファミマに散乱していたポップコーンの皆さん。

 

沈殿と回転

 心の底にいろんなものが沈殿する週末だった。ポイントカードの期限が間近だったので3日連続映画館に生き、「ケイコ 目を澄ませて」「そばかす」「少年たちの時代革命」を鑑賞した。自分の考えている事を信じて良いかもと思えたし、自分の考えている範囲なんて狭小で不確かなものなんだと揺さぶられもした。ケイコはろう者のボクサー、そばかすは恋愛感情を持たない女性、少年たちの時代革命は香港の雨傘運動に参加する若者達。それぞれ異なる葛藤と闘いが描かれており、映画館を出た後毎日頭をぐるぐるぐるぐるさせながら帰った。家でもまだぐるぐるしている。透明にして鏡で見たら木星の自転ぐらい高速で回っていた。前世が平原綾香だから無理も無い。

 映画三昧の合間で「まとまらない言葉を生きる/荒井裕樹」という本も読んだ。

 学者として障害者や障害者運動家と接してきた著者が、昨今の世の中を「言葉が壊れてきている」と警鐘を鳴らし、日常生活で増えてきた危うい言葉と社会への違和感を論じている。単なる若者の言葉遣いとかではなく、理解のない言葉や議論を遮断してしまう言い方について。文中の言葉を借りると「短い言葉では説明しにくい言葉の力」についての思いを綴っている。こんなことを書いてくれる大人がまだいることにすごく安心したし救われた。僕を支える本がまた1つ増えた。生きた心地を求めていいし、ムードや雰囲気に誤魔化されてはいけないし、言葉と心を思い続けることを絶対にやめてはいけないと強く、強く決意した。自分と周りと次世代のため。絶望に加担するもんか。自己責任もコスパもタイパも論破も無くなっちゃえばいい。人生は無駄じゃない無駄を集める旅だ。

 会社の新年会で偉い人の隣に座ったらまぁ酷いいじりばっかでうんざりしてしまった。実害を被ることがあまりなかったのでかなり面食らった。一晩立っても腹が立っていたのだなと、スーパーのセルフレジを操作する中指を見て気づく。めちゃくちゃ優秀な人らしいし、一端で判断してはいけないが、オセロは結局角にある色に染まる。この世界はそんなに変わらない、変わればいいってもんじゃない。でも変わってほしいことがある。思っていることを話せばいいってもんじゃない。でも話したい事がある。感じたことを表現すればいいってもんじゃない。でも言葉にしたいことがある。全てを沈殿させたままでは居られないのだ。

 

 

 帰り道、通りがかったカレー屋で家族客が楽しそうに食事してる様子が目に入った。あの家族のことは何も知らないけど、おいしく食べて無事家に帰ってぐっすり寝ていることを願う。あなたの生きている心地が守られますように。